3.会場設定から集客まで

 

 

 

  会場設定から集客まで

 

 (会場の設定)

 討論会の会場については、はじめに目安をつけた上で候補者に提示することが必要であるが、当然のことながら候補者の日程によって変化することは言うまでもない。従って先ず討論会を開催しようとしている地域のなかにある会場のリストをあらかじめ調べていた方が良い。いままでの経験からいうと、きちんと調べてみると穴場的会場を見つけることが良くあった。会場の設定については次にあげる3つの要素の総合で決まる。
  1、 会場の広さ
 
2、 費用
  3、 地理的条件
  この3つである。会場の広さについては、市町村長選や知事選のように首長を選ぶ選挙に置いては非常に関心を呼びどこでも500人1000人1500人と人が集まった。これは決して人口とは比例しない。例えば東京都知事選でも集まった聴衆は1000人程であったが、5000人規模の町でも平気で1000人1500人と集まる。だからもし首長選挙の場合はそれくらいをめどに考えておいたら良いだろう。しかし県会議員や市会議員あるいは参議院の場合は大体200人前後で、1998年の参議院選では最高で400人が集まったにすぎなかった。
  衆議院選挙は首長選挙に準ずると考えて良い。500人から1000人ぐらいの会場が適当ではなかろうか。
  会場はやはり公のものを使用すると費用は安上がりである。しかしホテルなどの民間の会場を使用するとかなり高くなる。今までもホテルを会場にしたことはあったが、それは主催団体がある程度資金的に余裕があった時か、またその会場のオーナーが趣旨に賛同して会場使用料を格安にしてくれた時だけであった。
  時に選挙に関わることとで公の施設の使用が禁止される場合があるが、今まで何度も公の会場で会が開かれており粘り強く折衝すれば何とかなるものである。
  もうひとつは地理的条件である。今まで会場設定のなかで、やはり一般市民にとって足場の悪い会場はどんなに美しく費用が安くてもまずいであろう。
  例え古い会場であっても市民が気軽に来られる場に設定した方が良い。今までも、豪華な会場なのに地の利がないためにまばらな人しか集まらなくて、有権者にもまた候補者にも不評を買ったこともあった。基本的に公開討論会は1つの選挙で1回なので、どちらかの候補の地盤で行われることもある。しかし討論会が誰の地盤で行われるかについては、野次や拍手を禁じている以上何の問題もない。もしどこかの陣営から「会場設定が相手候補の地盤の中で行われるのは不公平だ」と言う意見がでたら「それは何の問題もない」ことを説得すればよい。まともな理解力がある人ならそこで横車をおす人はいないだろう。
  なお、交通至便で500人規模以上の公の施設の場合、休日は半年以上前から予約が入っている場合が多い。首長選のようにあらかじめ選挙日程が推定できる場合は、できるだけ早めに複数の会場で2〜3の日程を予約しておくのが望ましい。
  また、野外劇場型(屋根付)の会場で実施した前例もあり、室内にこだわることは無い。

先頭へ▲ 

 (開催費用について)

費用は10万〜30万

 公開討論会を実行しようとする場合、真っ先に頭をよぎるのはお金の問題である。電話で相談を受けるとよく小声で「ところで費用の方は如何程…・・」という質問を受ける。今までの経験からすると大体10万円から30万円というのがおおよその目安である。今まで一番少なかったのは1万5000円で市長選の討論会を企画した時があった。費用の大半は開場費である。普通シンポジウムを開くとしたら講師を呼んだりパンフレットを作ったり人集めに奔走したりと何かと費用がかかるものである。
  しかしこの討論会は意外とお金はかからない。開場費と幾ばくかのチラシ代と後は雑費くらいである。だからあまり心配する必要はない。ではその資金をどのように工面したら良いのだろうか。これもいままでの経験によれば、まさに案ずるより生むが安しで普通に考えれば良い。この討論会は勿論商売ではない。まさにボランティアで公のために活動するという尊い行いだと思う。
  当然のことながら活動には費用がかかる。それを常識的に予算をたて、それを市民から集めるのである。勿論会の主催者が大金持ちで自分がすべて費用を持つと言うならそれも決して悪いことではない。しかし本来の趣旨から言えば、この試みに賛同してくれる人から薄く広く集めるのが良いだろう。今まで会を開催するにあたって主催グループのメンバーが費用を均等割にして運営を行ったことも良くあった。この討論会はこれを運営する当事者にとっても意味の深い学びになるので、自分の勉強代と考えればそれもまた良しである。しかし一般的にはやはり外部の人に自分達の思いを伝えて協力を仰ぐのが大切なことである。今の世の中世知辛くなって自分の得にならないことにお金を出そうという人などいないと思うかもしれないが実際は違う。こちらが私心なく自分の思いを伝えれば、必ずひとの心を打つものである。これも実際にやって見れば良い。決してこのお金を集めるというのは乞食がお金を恵んでもらうのとはわけが違う。社会にとって意味のあることを自然に行うための、いわばお布施のようなものである。なにも威張って集める必要はないが堂々として協力をお願いすればよい。
  お金の集め方としては今まで色々な方法が試みられたが、一口5000円の協賛金で集めてくる方法が最も実効性があり十分まかなえた。これも代表者一人が集めるとなると、例えば討論会が20万円かかるとして5000円づつ集めれば40人を口説かなければならないことになる。これは大変である。できれば人脈の広い人や経営者のかたや町の何らかの役についている人に何人かに声をかけてほしいと頼めば面倒見の良い人は必ず出てくる。例え今そういう有力者を知らなくてもこちらの活動が純粋で意義の深いものであれば不思議なことに人の縁が生じてくるのである。

協賛金を募る

  まず協賛のお願い文を作り、協力者を仰ぐ。勿論そこにお金の振込先を添付して後でお金を入れていただいても良い。しかしできるならその場でもらって領収書を渡す方がお互いにとって便利である。意外とお金の振込みは不便でありうっかりすると忘れてしまう。
  そして協賛金をもらった人には会が終わった後、必ず決算報告書を送る旨を伝えておく。先ず間違いなく資金は集まると言う信念で取り組めば良い。
  しかしここで注意していただきたいことがある。それはこの協賛金はお金が絡むだけに慎重にしないと後で問題を起こすことがある。
  ある時の市長選で討論会を開催したときのことである。費用は大体20万円前後がかかることがわかり協賛金を集めることになった。そのとき会の趣旨に賛同してくれたある経営者の人が10万円を寄付してくださった。その申し出はとても有難く、会の運営は順調に進んだ。討論会は無事終わったがその後大変な問題が起こった。討論会が終わり、選挙が終わった後、討論会に出席したある候補が当選した。ところがあとで発覚したのは、10万円を寄付してくれた経営者の方が、当選した候補の有力な応援者であったのだ。そこでこの討論会がその候補を当選させるために仕組まれたのではないかという嫌疑がかけられたのだ。実際わたし自身その討論会をサポートしながらこの討論会が全く公平におこなわれたことは良く知っている。むしろ当選したとはいえその問題の候補は討論会への出席を最後まで拒んでいたくらいで、討論会がその候補を利するために行われたなどというのは濡れ衣以外のなにものでもない。ただ実際費用の半分を出したのがその候補の有力な応援者であったとなれば、疑われてもしかたのないところであろう。この問題はしばらく後味悪くその地域で引きずっていた。ここから得た教訓は、外部から資金の協力を仰ぐ時には、ひとりから半分に匹敵する協賛をもらってはならないと言うことである。公開討論会は中立に運営されるのが基本であるので、1つの会社が後援という名目で名前をだすのは不味いだろう。そのことを是非注意していただきたい。

カンパを募る

  次に資金を集める方法としてカンパがある。協賛の場合は一応一口5000円という基本線があるが、もっと広く薄く集めるのであるならば1000円を一口にしてカンパを集めるとよい。例えば良く学生が行う方法として、何かの集まりで幹事の人にお願いして、会の終わりに討論会の趣旨を話して募金箱を回す方法である。これもうまく趣旨を理解していただいたら結構あつまるものである。
  それから当日のカンパも有効である。会の終わりに会の代表者がお礼にたったときに、この会が全くのボランティアで運営されていることを有権者の人に伝え、いくらかかったので是非カンパをお願いしたいと訴えるのである。これも経験上かなり集まる。ここで大事なことは大体費用が何円ぐらいかかったかということと、何円くらいカンパしてほしいかを、いやらしくない程度に提示することである。「カンパとして、大体500円くらいお願いできないか」と言ってみる。なかにはカンパをもらおうとすると、このような討論会でお金を取るのは筋違いだと怒る人も稀にいる。しかし大人の感覚があればその会が無料で開催していると考える方が市民意識からは離れている。これもカンパであるので無理強いしてはいけないが堂々とお願いすれば良い。
  もし市民からお金をとることが問題だというなら是非行政に対して資金的援助をしてくださるようその人に要請してもらえばよい。
  ただこのカンパの場合、やはり学生が主催している時はたくさん集まるが青年会議所のような経営者グループが主催しているときはどうも市民感情としてあまり集まらないのも事実である。

参加費は無料に

  さてここで会の参加費を徴収する方法について考えてみる。普通シンポジウムや講演会の場合参加料を支払って会場にはいるのが普通であるし、またその参加費で会の運営を行うのが常道であろう。またタダのものに人は足を運ばないと言うのも定説である。そこで時に300円とか500円とか参加費を徴収して有権者を集める方法を考えるグループもある。恐らくその心理としては只だと運営が全くの未知数になるので、どうしても300円程お金を徴収したくなるのであろう。もし1000人の会場でひとり300円を集めれば総額30万円となり会は十分に運営できる。それに300円というのは全く常識内の金額であって、その意味ではこういう企画をたてたとしてもあながち間違いとはいえないだろう。しかし経験則によれば必ずしもこの方法はうまくいかない。なぜならばこの討論会という存在が例え些少であっても金銭をとるという形態になじまないかもしれないということである。人間の心理としてどうも「お金をとるのなら行くのをやめよう」という無意識が働くようなのである。
  参加者の人数がどうなるのかというのはさまざまな要素が絡み合っているので一概にいえないが、ほかの要素が同じ場合どうも参加費を徴収する場合の方が人の入りが悪かったことも事実である。そうなるとはじめ予定した人数は取らぬ狸の皮算用になり、結局は赤字になるということになる。
  また時に参加費は無料だが、開催協力費を500円程徴収する方式をとったところもあった。これもチラシに明記してしまえば「なんだやっぱりお金を取るんだ。」ということになってどこかあざとさが見え隠れしてしまう。
  わたしは経験則として参加費は無料にして、整理券は配ったとしても、もしお金を会場から集めるのなら当日会が終了したときに代表者がお礼をかねて壇上に立った時にカンパのお願いをするのがスマートであろうと考える。
  今まではこれらの方法でほとんど問題はなく費用を捻出できた。
  やはり会の成功は当然人がたくさん集まり、来た人が喜んでくれることであるが、もうひとつ大切なことは算盤の上で勘定が合うことである。この討論会はボランティアで行われることは勿論だが、しかし赤字にはならないようにすべきである。会が終わった後赤字になったら疲労感は倍増する。たくさん余らせてないけないが、ある程度余裕があって少し残るくらいがベストである。

予算案は慎重に

  そのためには入るを計って出を制しなければならない。
  ある時の市長選の時である。都内の学生が中心になって討論会を企画した。その学生達は行政から9万円の助成金を引き出し、また街の商店街経営者の方々の賛同を得、合計で35万円を資金として事前に作った。
  その話を聞いた時には大したものだと思っていたのだが、後になってわたしの所へアドバイスを受けに来た時に驚いた。「経費が全く足らないのでどうしたら良いのですか」というのだ。わたしは、経費は潤沢だと思っていたのでどうしたことかと思ったが、彼らの予算案を見て得心した。
  彼らが作った予算案では支出がなんと70万円に達していた。会場費が9万円なのに何にそんなにかかるかと思ったら広告宣伝費に40万以上かけていたのだ。確かに普通にチラシやポスターを印刷したら20万はかかる。また新聞の折り込みもしたらこれも何十万とかかる。これもそれだけかけても元がとれるイベントならそれだけの値打ちもあるが、費用対効果という観点からはかけすぎである。もしチラシを作るにしても簡易印刷にして5万円くらいでおさめなければならない。もちろん主催団体が資金を潤沢に持っていていくらかけてもよいというなら話は別だが今の経済レートにかんがみて30万以上はかけるべきではないと思う。
  広報は単にチラシを新聞に入れれば人はあつまるのではない。もっと根源的なことであり、なるべく資金は余裕をもって使うべきである。そしてそれは知恵を使えば十分に可能なことである。
  かつて筆者は経営の神様といわれた松下幸之助翁から経営や人間学を学んだが、こんなことを聞いたことがある。余談になるが参考になればと思う。かつて松下が関西の経済人のまえで講演をした時のことである。松下はダム式経営の話をした。ダム式経営とは、経営というのは資金も人もすべてダムに水をたたえるがごとく余裕を持って経営をしなければならないというのである。まことにもって当たり前のことで講演が終わってから1人の聴衆から質問の手が挙がった。「松下さん、あなたは、経営はダムに水をたたえるように余裕をもってとりくめとおっしゃる。それはその通りですが実際はなかなか余裕のある経営はできません。わたしはどうしたらそのダム式経営ができるかその手法をききたいのですわ」その質問に対して松下は壇上でしばし沈黙したという。30秒ほど空白の時間のあと松下は次のように答えた。「ダム式経営はどうしたらできるかわたしもようわかりませんのや。やりかたはようわかりませんがとにかくダム式経営をしたいと強く願うことですわ」そういって松下はにっこり笑った。この意表をついた答えに会場中が爆笑の渦に包まれた。これを松下一流のユーモアととらえたか「それでは松下さん、答えになってませんで」という嘲笑の笑いかいずれにしても、とても論理的答えではなかったことは間違いない。
  ところがそのとき電撃に打たれた人が1人だけいた。後に京セラの総帥となる稲盛和夫氏である。このことを縁あって氏に直接聞いたがそのとき「とにかく願うことですわ」という松下の言葉は氏の魂を貫いたという。それ以来彼の信条の一つが強く願うというものになった。私はこの言葉はあらゆる活動に適応できると信じている。私たちは何かをする前に色々な諸条件を考えながらことを進めようとする。物事を熟慮し判断していくというのは大切なことである。しかし物事は実際に始めてみないとわからないことの方が多いまさにラーニング・バイ・ドゥーイングであって、行動して始めて扉が開かれていく。その時に正しい情熱が裏打ちされていれば思わぬ手助けがあるものである。その思いの方向性が間違っていれば駄目だが、正しい方向性が示されていればその方向に進んでいくものである。
  討論会が成功したという最大のポイントは会場にきた有権者の人が喜んで家路につくことであることは間違いないが、もうひとつは下世話な話のようだが赤字が出ないことである。このことはぜひ念頭においておいていただきたい。
  ちなみに前述の学生達が「行政から9万円の助成金を引き出した」話には後日談がある。学生達が当初「行政」と思っていた組織は、実際は地方自治体労働組合が全国的に展開している研究組織であり、この組織がボランティア活動に助成金を出しているので応募したところ当選した、とのことであった。しかし学生達を後援している青年会議所のメンバーが、この研究組織は特定政党を支援していることを教えてくれたため、学生達は助成金を辞退した。しかし、青年会議所メンバーの協力もあってなんとか協賛金も集まり、資金的にもうまくいったそうだ。

先頭へ▲ 

 (集客大作戦)

 公開討論会の成功に大きな影響を与えるのは、会場がいっぱいになるかどうかである。時に「何人くるかどうかは問題ではない。大切なのは例え1人でも本当に町や国の未来を真剣に考えている人が集まってくることだ。無理して集客する必要は無い。」と建前論を振り回す人がいる。主催グループの中にそういう人がいて自説を曲げないと厄介なことになる。最後はどんなに取り繕っても閑散とした会場では成功とは言えないし、主催者もまた参加してくださった候補にとっても疲労感が残るものだ。この節では討論会の会場が多くの市民の方で埋まるための集客大作戦を解説したい。
  集客については、心配するのではなく、なすべきことをなせばよい。
  先に述べたように選挙によって有権者の参加人数がまちまちであることは間違いない。しかしこれはその選挙区の有権者の人数とはいささかも関係はない。ある時市長選で討論会をしかけた学生の一人がこんな質問をしたことがある。「東京都知事選の公開討論会に参加したのですが大体参加者は1000人くらいだったと思います。東京の人口は1000万人ですがこの比率でいくと私たちの市は50万人なので心配なのですが大丈夫でしょうか」というのである。彼は口にこそ出さないものの東京の比率でいうと50人しかあつまらないのではないかとおもっていたようだ。わたしは笑いながら答えた。「岐阜県の白川村で村長選があり、公開討論会が開催されたとき1400人の有権者のうち300人が集まったよ。この比率で言うと君の市では10万人が集まる計算になるけどこれだけの人数を収容する会場はありますか」と。彼も笑いながら納得していたが、選挙区の人口と討論会への参加者数は全く関係がない。
  では討論会の参加者はどのようにして集まってくるのであろうか。
  討論会に足を運ぶというのはそこに行くことに人がなんらかの価値を見出しているからに他ならない。となると討論会が関心をもたれるということはやはりそれなりの理由がある。まず討論会が意味を持つということは選挙そのものが面白いときである。始めから結果がわかっている選挙では面白みもない。
  有力な候補が複数名乗りをあげているとき有権者の関心は高まる。この時は討論会も盛り上がる。またその討論会に有力な候補が全員そろった時には関心は高くなる。したがって最も確実に人を集める鍵は、面白い選挙で有力な候補者が全員集まることである。
  いかに注目されている選挙でも候補者が参加しなければ有権者も集まらない。
  したがってまず集客を成功させるためにも候補の方に強く参加を要請することである。これが基本前提であるが、人を集めるにはそれだけのノウハウがある。今までも基本の条件はすばらしいのに、やり方がまずくて人が集まらないときがあった。人を集めるときにはそれに参加しようという関心を高めることだがその前に大切なことは討論会の存在をどれだけ多くの人たちに知ってもらうかという点である。
  よく討論会が終わった時にアンケート調査を行い、どこでこの情報を得たかという質問をするとどこも同じようなパーセンテージで出てくる。以下、多い順番に並べると次のようになる。
  1、 知人から、口コミで
  2、 新聞などのメディアからの情報
  3、 チラシなどを見て
  4、 ホームページを見て
  だいたいこの4つに分類される。それぞれの分野のパーセントにバラツキはあってもこの順番はだいたい変わりはない。よく空中戦で新聞の折り込みをすれば人は集まるだろうと考える人がいるが、これは経験上あまり効果はない。考えてもわかるが、スーパーの安売りチラシの真中に討論会のチラシが入っていても誰も見ないだろう。このように頭の中で考えることと現実は全く違うのである。

口コミの効果

  まず口コミ宣伝から考えてみる。口コミは非常に泥臭く手間のかかる仕事のように見えるが、これほど確実で効果のあるものはない。チラシをつくりそれを武器に人に伝えるのだ。たとえば10人のメンバーがいる場合、1人が確実に10人づつ連れてくれば100人が参加することになる。10人という数は真剣に伝えれば普通の人が十分に連れてこられる数である。自分の家族や親戚友達や会社の人など、手間はかかるがこの口コミの威力は抜群の力がある。これは主催者の熱意に他ならない。今10人が10人を連れてくると100人になるといったが実際はこの比率はもっと大きなものになる。電話を通して主催者の意気込みがバンバンと伝わってくるときは、例え主催するグループのメンバーがほんの数人であっても大変な数のひとが会場に押しかける。ところがこの主催者の気迫が緩むと結果として思わぬほど人が集まらないことになる。
  ある時の討論会でコーディネーターに呼ばれたとき会場に来てみるとスタッフが100人近く忙しそうに動いていた。これは1000人の会場は一杯になるなあと喜んでいたところ実際には150人ほどが集まったにすぎず会場には冷ややかな空気が流れていた。私はこの閑散とした会場でコーディネーターをしながら「祭酒の話」が頭を過った。粗筋は次のようなものだったと思う。 ある村で祭りがあった時のこと。みんなで酒を持ちより樽酒を振舞うことになった。そこで祭りの当日一斗樽が用意され、村人が次々と一升瓶の酒を注いだ。樽は酒で一杯になり鏡割りが行われた。さて村人が升に酒を汲み乾杯となった。村人が酒を口に流し込んだときに驚いた。それは酒ではなく水であったからだ。なぜこんなことになったのか。賢明な読者はすでにお分かりだと思うが村人がもってきたのは酒ではなく水であった。自分だけは水を入れてもわからないだろうと全員が思ったので結果として情けないことになったのだ。
  「自分くらいは…・・」という意識をメンバーが無意識に持ったとき、結果は全員が無責任な状態になる。この意識が蔓延しない方法は、代表者が範を示す以外にないだろう。まず「櫂から始めよ」で自分の家族や友達に声を掛けることから始めたい。どこかの団体からごっそりと動員してなどと虫のよいことをかんがえてはいけない。1人1人に声をかけるのだ。
  その時いろいろな感触を得る。非常に賛同してくれる人もいるかもわからないし、反対に無視されるかもしれない。でもそれをできる限り声をかけるのである。人間の深層心理には「自分の知り合いを会に誘って、もし満足してもらえなかったら嫌だから知り合いをさそうのはやめよう」という、いわく言いがたいバリアーが存在する。しかし実際会に足を運んでもらって「よい会をしてくれましたね。ごくろうさん」と労いの言葉こそもらったとしてもまず不満をもたれることはない。むしろ会が成功した時にもし声をかけていなかったら後で「なぜ声をかけてくれなかったのか。水くさい」と恨み言を言われることのほうが多い。東京都知事選の時は後で私も多くの人から「なぜ情報をくれなかったのですか」と文句を言われた。まずここから始めたい。
  さて次に各団体への出席要請である。市にはさまざまな団体が存在している。勿論思想的に問題があるところは別として、福祉団体や環境団体また教育団体など思想的に偏っていないところには積極的に声を掛けると良い。そういう団体はかなりネットワークが広がっていて、一箇所に声を掛けるとすべてに行き渡ることが多い。そのキーポイントを探せば良い。今までNPOの連合会や福祉団体の連合会が討論会をしかけたこともあり、ツボにはまれば多くの人が参加してくださる。
  また経済団体やサークルなどへの呼びかけも積極的に行いたい。

先頭へ▲ 

後援会の動員について

 さてここで候補者の後援会や支持者の人たちの動員をどうするかということについてポイントを述べたい。
  かつて立会演説会が昭和58年に廃止になった時、大きな問題のひとつであったのは特定の政党や特定の候補の応援団が会場を占拠し気勢を上げる暴挙が頻発したからだということは先に述べた。その時の記憶がまだ古い年代の人達の深層心理のなかにあり、公開討論会や立会演説会という言葉を聞くとアレルギー反応を起こすようである。また実際討論会に多くの一般市民が集まることが大切であり、個人演説会が討論会の会場に変更しただけの動員合戦が繰り広げられては討論会事態の公平性を欠くことになる。
  そこで各陣営に対しては会場の1/4を参加候補の人数で割った分の整理券を渡すぐらいが順当であろう。つまりもし会場が800人の会場であればその1/4は200人である。もし候補が4人出ていればその4分の1にあたる50人というのが1人の候補に配ることができる整理券の枚数と言うことになる。このことを各陣営に明示することは2つの点で意味があることである。先ず第一はこうすることによって各陣営とも、他の候補の応援団が会場を占拠する心配は消えるということである。安心して討論会に候補が臨めるということだ。第2はこうすることである程度の集客は確保されると言うことである。よく各陣営の応援者でなく一般の市民に集まってもらいたいと言う主催者の希望が強く、もし各陣営の応援者で会場が埋まったらどうしようと心配する人がいるがそれには全く及ばない。なぜなら特定のジャケットを着込み応援団が大挙して会場にくれば別だが普通の服を着て会場に来た人はすべて一般の市民と考えてよい。そして実際ある候補の応援者であっても討論会に来てみて支持する候補が変わることはままあることである。今まで見てきて討論会の会場が1人の応援団で埋まってしまうということは一度もなかった。
  恐らく各陣営や候補陣営の意識のなかには微妙な心理が働くものと思われる。もし会場が敵の候補の応援団で占められたとしたら候補にとって心配であることは言うまでもない。しかし討論会の会場に必死に自陣営の支持者を集めるかとなると、これにも心理的ブレーキがかかる。なぜならこの討論会で自分自身が他の候補を圧倒するとは必ずしもいえないからだ。もし討論会の会場で自分がへまをすればかえって支持者を減らすかも知れない。それに同じ人を動員するなら自分の演説会に動員したほうが効率がよい。そういう複雑な心理が各陣営働くようなのである。
  したがって、「支援者を動員してもよいですよ」と言ってもなかなか候補者陣営は動員をかけないのが実際のところなのである。参議院選挙や地方議会議員選挙などのように集客があまり期待できない討論会では、むしろ候補者陣営にも指定した人数までは積極的に動員をかけてもらうのが得策であろう。また、合同個人演説会のように告知期間をあまり取れない場合は候補者陣営への配分を、会場の1/3から半分程度まで引き上げるべきである。経験上各陣営に渡す整理券は50〜100枚くらいが妥当であると思う。
  今日までには全く荒っぽいことをやったこともあった。ある知事選のことであるがこの時は一人の保守系の候補が討論会への参加をしぶりに渋り、ついに投票日の5日前に参加を承諾した。そして3日後に討論会が開かれることになった。さすがにこれは異例のことで普通の集客のノウハウは使うことができなかった。会場を押さえるのも大変で、結局空いていたのは市内のホテルの500人部屋のみであった。そこでこの会場を押さえた上で集客に取り掛かった。そこで各陣営に対し整理券を150枚ずつ渡した。そしてテレビと新聞を通じて討論会が行われる旨を県民に通知し討論会を見たい人はどの陣営でもいいから整理券をもらってほしいという情報を流した。次の日各陣営の電話は鳴りっぱなしになり、当日会場は人で溢れかえった。しかもあるテレビ局が討論会に参加するために整理券がいることを言い忘れたために整理券を持たない人が会場の外にあふれパニック寸前になった。どうしようもなく会場の扉を閉め整理券を持たない数百人の人はまことに申し訳ないことにお帰りいただいた。しかしその討論会は大きな反響を呼び、マスコミにも何度も取り上げられた。
  これはまさに緊急非難的な措置であり通常の方法ではないが何とか形になり問題は全く起こらなかった。口コミのなかでの各陣営への働きかけはうまくすれば非常に大きな効果を齎す。
  なお、整理券を発行しない場合、どのように応援団の人数を制限するのか、特に保守陣営が心配することがある。彼らを安心させるためには次のようにすると良い。
  1) 応援団席として認可した席数をマスコミ経由で公表する
  2)応援団名簿を事前に提出してもらい、受付を分ける
  3)場合によっては当日、応援団席を色分けする

マスコミに働きかける

 次にマスコミに対する働きかけについてお話したい。討論会の2,3日前に新聞紙上で討論会の記事が載ることはとても有効である。このあたりはマスコミの方との人間関係や選挙に対する市民の注目度にもよるが、大体最低でも記者会見の時に一回、選挙の2,3日前に1回と合計2回は記事になる。記者会見の時は場所も参加の候補も確定していないのでこの時の記事は市民の関心は集めても集客には至らない。従って場所や日時、そして参加候補が確定した都度、マスコミに情報を流すか記者会見を開催し、記事にしてもらう。この時日時と場所、そして問い合わせ先を明記してもらうようにお願いする。これは大切なことで、せっかく記事を書いてもらっても問い合わせ先がなくて市民の人がまごついたこともあった。そして最後に直前にもう一度記事を書いてもらうのである。今までの経験によれば新聞記事の反響はかなりのもので、いつも参加する有権者のなかで30%以上が新聞記事を手がかりとして集まってくる。新聞記事の反響はその記事がでた当日及び翌日の電話の様子でわかる。2日過ぎて新聞の反響が大きく出てくることはない。
  電話がひっきりなしにかかってきたら多くの人が関心をもってくれたと思ったらよい。しかしこの反響もこちらの思惑と現実が違うことがあるので要注意である。ある市長選で討論会が開かれたときのこと。その主催グループは一生懸命人に声をかけたのだが反響も大きく問い合わせの電話が事務局にひっきりなしにかかってきた。会場は1200人収容のホールであったが彼らは2000人以上集まってパニックになるのではないかと恐れ始めた。まだ討論会の開催日までは数日が残されていたがかれらは「もうこれで積極的な集客は止めたほうがよいのではないでしょうか」と聞いてきたのだ。それに対して私は「今までどおり積極的に市民の皆さんに声をかけてください。会場があふれかえってもかまわないという気持ちでやってください」と答えた。経験上もちろん人があふれかえることもままあったが、それはむしろ喜ばしい悲鳴であって熱気があふれる会場はそれだけで討論会の成功を約束してくれるのである。それよりも会場があふれるのではないかと危惧をして集客を適当にしているとあとで後悔することが散見されたのだ。そのグループも構わず集客をつづけた。結局当日は1200人が計ったように会場を埋め討論会は成功裏に終わった。取らぬ狸の皮算用という言葉があるが、平均して集客は予想の65%くらいだと考えていたらよいだろう。それくらい思ってやっていると結果として思わぬほど人が集まることになる。

チラシのポスティング

  さて次にチラシのポスティングについて述べたい。チラシを各家庭に配布して市民に知らせる方法である。これも経験上なかなか有効である。少なくとも新聞の折り込みよりは人々の目には触れる可能性は大きい。しかしこのポスティングという手法はかならずしも万能ではない。例えば3万人クラスの自治体ならば家族数は約1万くらいだから、もしメンバーが20人いたとしてそのメンバーが手分けして各家庭に配布したとするなら500枚を撒く勘定になる。1人500枚のポスティングはそんなに難しいことではない。もし時間と労力に余力があれば試してみる価値はある。しかし100万都市でこのポスティングができるかというとそれはおおいに疑問である。大都市の場合は会場の近隣に限定してチラシを撒いてみるくらいがせいぜいである。
  1999年東京都知事選の時は、会場がある三軒茶屋付近にポスティングをしたが、大東京あいての選挙でのポスティングは焼け石に水のようなものであった。もうひとつついでに言えば駅でのチラシ配布は全くといってよいほど意味がなかった。まずチラシをとってもらえないし、手にしても次の瞬間ごみ箱いきである。学生はこの駅でのチラシ配布で集客しようと考える傾向があるが、あまり期待しないほうがよい。もちろんこのチラシ配布に汗をながしている姿をマスコミにとりあげもらって記事にしてもらえばそれなりに宣伝効果はあるだろうが………。

ホームページの効果

  さて最後にホームページの効果について述べたいと思う。
  ホームページでの情報伝達は経験上まだまだ発展途上であると言わねばならない。ホームページを見て討論会に参加する人は10人を超えることはない。あまり過剰な期待はしないほうがよい。
  以上集客について色々方法を申し上げたが、とにかくやるべきことを素直に行えばよい。やるべきことをやったら後は運を天に任せればよい。必ず答えは出ると思う。少なくとも大部分の討論会で予想以上に有権者が集まって大いに盛り上がったという事実に対しては自信を持ってもよいだろう。

先頭へ▲ 

 (コーディネーターの役割と注意点)

 討論会の運営においてはコーディネーターの役割はとても重要である。よく討論会を開く主催者からコーディネーターの選択についての相談を受ける。コーディネーターは政治的に中立でないといけないのは言うまでもない。またコーディネーターはテレビのショー的な論争の仕切り役でもないし、自分の意見を述べる役でもない。しかしただ機械的に話を進める人でもない。そのあたりのバランスが難しいがこの討論会のコーディネーターはきちっとした人なら誰でもなれる。今まではその会の主催者の中からよく話ができる人が選ばれることも多かった。学生や青年会議所のメンバーの中でコーディネーターが選ばれることもたびたびあった。また町の有識者や大学の先生の中で政治的に中立で弁のたつ人が選ばれることもあった。
  実際の討論会ではかなり綿密にシナリオを決めているのでそんなにコーディネーターがあれこれ判断しなければならないことはない。ただやはりコーディネーターの進行の仕方によって会のイメージが左右されることも事実であるし、コーディネーターがどちらかの候補の肩を持っているようなイメージを持たれればこれはまずいことである。
  あまり神経質になる必要はないが政治的中立性には気をつけていただきたい。
  さてコーディネーター役をする人に何点か注意をしておきたい。私自身は全国の討論会のアドバイスをする立場なのですべての討論会のコーディネーターをしたわけではないが。今までの経験の中でまず心構えとして「イザというときには自分が責任を負って判断する」ということを申し上げたい。もし誰かが奇声を発したとか、どこかの候補が他の候補を誹謗中傷したとか、事前運動発言が出たとか、そいうい非常事態には自分が処理するのだという心構えが必要である。そう腹をくくっているとまず問題は起こらない。

 それぞれの討論会でのコーディネーターはどれも記憶に残るものだったが1999年東京都知事選の時にコーディネーターをしたときは非常に緊張もし、進行も苦労した。東京都知事選の時は何度も何度もテレビで討論会が放映され、各地の首長選としては特異に候補者の素顔がお茶の間に流れていた。テレビと同じではつまらないし、しかし反対にあまり奇をてらっても失敗するだろう。東京都の抱える問題は多岐に渡り一つのことに執着できない。しかしあまり総花的になっても皮相的になる。2時間あまりの時間の中で数々の問題をどう処理し、しかも会場に足を運んでくださった有権者の方に喜んでいただけるか、かなり頭に汗をかかざるをえなかった。
  普通コーディネーターをする場合できる限り黒子に徹する気持ちで丁度である。しかしこの場合あまり淡々と進行をしたら「テレビで見たのと同じ」になる。私は都会議員の友人にたのんで都庁に出向き役所の方々から東京都の行政について8時間にわたりレクチャーを受けた。この時オフレコで一人一人の候補の政策についても意見を聞いた。それぞれの候補に対して先入観を持たないことも大事だがまた反対にその町の問題点や各候補の主張を知っておくことも大事なことである。私は少なくともコーディネーターをする場合は事前にかなりその町のことを勉強することにしている。
  東京都知事選の場合はかなり私もそれぞれの議題に対し考えを述べることにした。悶義理方では面白くないと思ったからだ。この作戦は図にあたり、参加した聴衆はテレビとは違う生の迫力に満足したようだった。後でとったアンケートには「コーディネーターの方が立候補すればよい」という意見も続出した。しかし「コーディネーターはしゃべりすぎだ。」という意見もいくつも出てきて苦笑した。
  東京都知事選の時は特殊事情で、普通コーディネーターは基本的にはそれぞれの候補の考え方や主張に対して自分の意見をあまり言わないほうがよいだろう。それぞれの候補の主張に対してどう思うかは有権者の感性に任せておけばよい。人はどんな人でもかなりの感度をもっているものである。
  もう1つ私がコーディネーターをした事例をお話したい。これはダイオキシン問題として全国的に有名になったのでご記憶の方もいらっしゃるとおもうが、1999年10月に行われた埼玉県所沢の市長選における討論会の時は非常に神経を使った。現職の市長に対してダイオキシン問題を全国区にひろげた市会議員の方との事実上の一騎打ちで、かなり前から両候補のなかで激しい鍔迫り合いが展開していた。市の議会で「あなたは公開討論会があったらでますか?」と聞かれた時に市長が「受けて立つ」と答えた時から討論会が現実味を帯びてきていたのだ。私はこの所沢での討論会のコーディネーターを頼まれた時にやはり一旦躊躇せざるをえなかった。
  問題が問題であるだけにコーディネーターの発言によっては選挙そのものにも影響を与えかねない。これはたまたまのことであるが、公開討論会のことがテレビ朝日のニュース・ステーションで大きく報道されたその日に所沢のダイオキシン問題が火を吹いたのだ。私は所沢に赴き市の行政の現状を研究し、また問題となっているダイオキシンの現場も視察した。実際見てみるとさまざまな問題が絡み合い、所沢市単独でどうこうできない課題が山積していた。
  非常に難しい作業であったがお互いの誹謗中傷にならず、実ある議論になるためにはどうしたら良いか知恵を絞った。時間や話す順番の公平性はもとよりコーディネーターの発言も腐心した。実際討論会を開いてみるととても整然とした発言が続きほっと胸をなでおろした。この場合は全国的になったダイオキシン問題がネックであったが、それぞれの選挙でもおそらくいろいろな微妙な問題が内包されていることだろう。
  公平性には十分注意したい。
  次に時間のことに関する注意をしたい。時間は貴重なものであり仮に開始時間になった時に有権者の参加人数が少なくても、基本は時間になったら始めることである。そして討論会の終了時間も決められた時刻にはきっちりと守り、例え会がどんなに盛り上がっても討論会の時間延長はしないことである。
  この時間のコントロールはコーディネーターの重要な役割である。時間との戦いは覚悟しておいたほうがよい。

先頭へ▲