内田 豊(リンカーン・フォーラム事務局長)
公開討論会の主催者から時々、こんなことを尋ねられます。
「注目を浴びている選挙でならともかく、全くの無風選挙や、勝敗が分かっているような有権者の関心の低い選挙で、公開討論会を開催する意味があるのでしょうか?」
そんな時私は、2年前に東京都で開催された、ある区長選の公開討論会のエピソードをお話しすることにしています。
その区長選は新聞記事の扱いも小さく「争点のない選挙」と言われ、非常に有権者の関心が低い選挙でした。それでも有志の努力で公開討論会が開催されました。
壇上に上がった候補は6名。
各自の政見を聞いているうちに、多くの来場者は同じような思いを抱いたようです。
区の現状を正確に語れない候補、スローガンばかりで具体策がない候補、下を向いたまま原稿を棒読みし、とうとう一度も有権者に顔を向けなかった候補・・・。
失礼ながら、どの候補にも票を投じたくない、「究極の選択」を迫られるような公開討論会でした。
私の後ろにいた来場者は、
「こんなんじゃあ、アタシが出るべきだったわ。」
「全くだわ。」
と井戸端会議を始める始末です。
討論会のお手伝いに来ていた学生は会の終了後、「4年後には僕が立ちます!」と憤慨していました。
私は会場のあちこちで見られたこれらの風景を見て、ひとつの確信を持ちました。
− この公開討論会は、有権者を目覚めさせた。
− その効果だけで公開討論会を開いて良かった。
それともうひとつ、忘れてはならないことがあります。
たとえ「究極の選択」でろうと、誰かを自分たちのリーダーに選ばなければなりません。自分の気持ちとして第1の候補は選べなくても、せめて第2の候補を選び抜き、自分たちの街の将来を託さなければなりません。
英語では第2候補のことをセカンドベストと言います。
2番目かもしれませんが、現在与えられた選択肢の中でベストの選択をしてこそ民主主義です。
「誰が区長になっても同じだから投票に行かない」などと考えてしまっては民主主義の放棄となり、結局は一定の支持基盤を持つ層の独裁を許すことになってしまいます。
公開討論会はセカンドベストを選ぶための場でもあるわけです。
この公開討論会は来場者の目を覚まさせましたから、各自が感じたセカンドベストはそれなりにクチコミで伝播していったことと思います。
◎ ◎ ◎
さて、その選挙が終わって2年が経ちました。
先日私はJR水道橋駅前の東京ドームの近くを歩いていて、道がとても綺麗なことに気がつきました。なぜかというと、タバコの吸殻が一本も落ちていなかったからです。まるでディズニーランドのように、ゴミひとつない道なのです。
それもそのはず、この近辺は2002年11月から全国初の罰則付き路上禁煙条例(いわゆるポイ捨て禁止条例)を定めた区だったのでした。区の調べによると、同じ区内のJR秋葉原駅では条例施行前の9/29には995本あった吸殻が、12/24には33本(3%)に激減したとのことで、驚くべき成果です。
そしてその区は、2年前にあの無関心と言われた選挙の中で「究極の選択」の公開討論会が開催された区だったのです。
その区の区長は、確かに公開討論会当時は、優れた演説力はありませんでした。しかし、彼はきっと有権者や区議の声にきちんと耳を傾けることができたので路上禁煙条例を決断し、素晴らしい成果を挙げることになったのでしょう。
有権者がセカンドベストで選出した区長が、全国的に注目を浴びる結果を出したことになります。
かつて松下幸之助翁は、「世間は神の如く正しい」と語り、一人一人の市民は不充分な判断能力しかもちあわせていなくとも全体としての大衆はかなり正確な判断をすることを諭しましたが、公開討論会が開かれた選挙では多くの場合、まさにこの言葉を体現しています。
有権者の関心の低い選挙でこそ公開討論会が広がることを、願ってやみません。